2024年3月、日本の調査船が南鳥島沖の深海5,569メートルから、茶色い泥を引き上げました。ただの泥ではありません。この泥を回収するために、日本は数十億円をかけ、数年にわたる準備を重ねてきました。なぜ、そこまでして海底の泥を引き上げる必要があったのでしょうか。
そこには、スマートフォンの画面をなめらかに動かすために必要な元素、電気自動車のモーターを強力にするための金属、そして現代文明を支える数々の「レアアース」が、世界最高濃度で含まれているからです。しかし、深海の泥を引き上げることと、それを実際に使える資源にすることの間には、想像以上の距離があります。
5,500メートルの深海から泥を引き上げる理由
南鳥島は東京から約1,800キロ離れた太平洋上の孤島です。その周辺海域の海底には、「レアアース泥」と呼ばれる堆積物が広がっています。レアアースとは、スカンジウムやイットリウムなど17種類の元素の総称で、現代のハイテク製品には欠かせない素材です。
この海底の泥には、陸上の鉱山と比較して数百倍という濃度でレアアースが含まれている場所があります。特に注目されているのが「ジスプロシウム」や「テルビウム」といった重レアアースです。これらは磁石の性能を高温でも維持するために不可欠で、電気自動車やハイブリッド車のモーターに使われています。
ところが、これほど高濃度の資源があるとわかっていても、実際に回収して使えるようにするまでには、いくつもの壁が立ちはだかります。
なぜ今まで手をつけられなかったのか
深海5,500メートルという深さは、富士山を海に沈めてもまだ足りない深さです。この深度では、1平方センチメートルあたり約560キログラムもの水圧がかかります。人間の体を一瞬で押しつぶすほどの圧力です。
このような環境で作業するには、特殊な機材が必要になります。海底の泥を吸い上げるポンプ、それを海上まで運ぶパイプ、海底で作業する無人機械。すべてが高い水圧に耐え、かつ効率的に泥を回収できる設計でなければなりません。
さらに見逃せないのが、回収後の処理です。引き上げた泥からレアアースだけを取り出す技術も、簡単ではありません。泥には他の物質も大量に混ざっており、そこから目的の元素だけを分離・精製するには、化学的な処理が必要です。この処理には大量のエネルギーとコストがかかります。
では、なぜ日本はそれでも回収に乗り出したのでしょうか。
中国依存という見えないリスク
世界のレアアース生産量の約6割を中国が占めています。より重要なのは、精製・加工においては中国のシェアが9割近くに達している点です。つまり、他の国で採掘したレアアースであっても、使える形にするには中国の技術に頼らざるを得ない状況が続いてきました。
2010年、尖閣諸島沖での漁船衝突事件の後、中国が日本向けのレアアース輸出を事実上停止したことがあります。この措置は数か月で解除されましたが、日本の製造業界には大きな衝撃を与えました。レアアースが手に入らなければ、自動車も家電製品も作れなくなる。そのことが現実味を帯びた瞬間でした。
この出来事をきっかけに、日本は独自のレアアース確保に本格的に動き始めます。南鳥島沖の調査も、その流れの中で加速しました。2013年には東京大学の研究チームが、この海域に日本の消費量の数百年分に相当するレアアースが存在すると発表しています。
しかし問題は、資源があることと、それを経済的に採掘できることは別だという点です。
採算が合わない、それでも掘る理由
現在の技術と価格では、深海からレアアースを採掘しても採算が取れません。陸上の鉱山から採掘する方が、はるかに安いのです。中国の鉱山では、露天掘りという方法で大規模に採掘できるため、コストを大幅に抑えられます。
深海での採掘にかかるコストは、専門家の試算によれば、陸上採掘の数倍から十倍以上になる可能性があります。船を何か月も海上に停泊させ、特殊な機材を維持し、引き上げた泥を処理する。そのすべてに莫大な費用がかかります。
それでも日本が技術開発を続けるのは、「供給途絶リスク」への保険という側面があるからです。平時には高コストでも、有事の際に自前で資源を確保できる技術を持っていることが、安全保障上の意味を持ちます。
加えて、もう一つ見逃せない点があります。深海底資源の採掘技術そのものが、将来的に輸出可能な技術になり得るという期待です。
技術が先か、市場が先か
世界の海底には、南鳥島沖と同様のレアアース泥が他にも存在すると考えられています。太平洋の複数の海域で、高濃度のレアアースを含む堆積物が確認されています。
つまり、深海底からレアアースを採掘する技術を確立できれば、その技術自体が国際市場で価値を持つ可能性があるのです。日本が先行して技術開発を進めることで、将来的には他国への技術提供やプラント輸出といったビジネスにつながるかもしれません。
ただし、これには大きな前提があります。レアアースの価格が上昇するか、あるいは採掘コストが劇的に下がらない限り、市場は生まれません。現在の価格では、わざわざ深海から採掘する経済的理由がないからです。
ここで興味深いデータがあります。レアアースの国際価格は、この10年間で大きく変動してきました。2011年には価格が急騰し、一部のレアアースは数か月で10倍以上に跳ね上がりました。しかしその後、中国が増産し、価格は再び下落。2020年代に入ってからは、電気自動車の普及に伴い、再び上昇傾向にあります。
この価格変動が、深海採掘の採算性を左右します。
環境という新たな論点
深海底資源の開発には、環境への影響という課題も浮上しています。海底の泥を大量に吸い上げれば、そこに生息する生物の環境を破壊する可能性があります。深海は未解明の部分が多く、どのような生態系が存在し、それがどう機能しているのか、完全にはわかっていません。
国際海底機構という国連の機関が、深海底資源の開発ルールを策定する作業を進めています。環境保護と資源開発のバランスをどう取るか、国際的な議論が続いています。
一方で、陸上のレアアース採掘も環境負荷が大きい産業です。中国の一部の鉱山では、採掘に使う化学薬品が周辺の土壌や水を汚染し、深刻な環境問題を引き起こしてきました。住民の健康被害も報告されています。
どちらがより環境に優しいかという比較は単純ではありません。深海採掘は未知の生態系への影響がある一方、陸上採掘は既に人が住む地域での汚染問題があります。
私たちの生活とのつながり
レアアースと聞くと遠い世界の話に感じるかもしれませんが、実際には日常生活のあらゆる場面で使われています。
スマートフォンの画面が鮮やかな色を表示できるのは、ユーロピウムという元素のおかげです。ノートパソコンのハードディスクが小型化できたのは、ネオジム磁石のおかげ。LED照明が普及したのも、レアアースを使った蛍光体があるからです。
電気自動車に至っては、1台あたり数キログラムものレアアースを使用します。特にモーターに使われるネオジムやジスプロシウムは、電気自動車の性能を左右する重要な材料です。
世界的な脱炭素の流れの中で、電気自動車の需要は急増しています。国際エネルギー機関の予測では、2030年までに世界の電気自動車保有台数は現在の10倍以上になるとされています。それに伴い、レアアースの需要も急増します。
つまり、深海のレアアース開発は、未来の移動手段や生活インフラを支える資源確保という、極めて現実的な課題なのです。
今回の回収が持つ意味
2024年に実施された南鳥島沖での泥の回収は、単なる実験ではありません。実用化に向けた重要な一歩です。
今回使用された技術では、海底に降ろした集泥装置が泥を吸い上げ、それをパイプで船上まで送ります。5,500メートルという深さで安定的に泥を回収できたことは、技術的な大きな前進です。
回収された泥は、日本国内でレアアースの分離・精製実験に使われます。どのような処理方法が最も効率的か、コストをどこまで下げられるか。これらの検証が今後進められます。
政府と民間企業は、2030年代の商業化を目指しています。それまでに解決すべき課題は多くあります。採掘技術のさらなる改良、精製プロセスの効率化、環境影響の評価、国際的なルール作りへの対応。
ただし、ここで忘れてはならないのは、技術開発には常に不確実性が伴うという点です。予定通り進むとは限らず、想定外の問題が見つかる可能性もあります。
日本が直面する三つの技術的ハードル
南鳥島沖のレアアース開発を実用化するには、具体的に三つの大きな技術的課題があります。それぞれが独立した問題ではなく、相互に関連しています。
採泥システムの連続稼働
今回の回収実験では、数日間にわたって泥を引き上げることに成功しました。しかし商業化には、数か月から一年以上の連続操業が必要です。深海と船上をつなぐパイプは全長5キロメートル以上。この長大なパイプを海流や波の影響を受けながら維持することは、想像以上に困難です。
パイプ内で泥が詰まれば、作業は中断します。海底の集泥装置が故障すれば、一度引き上げて修理しなければなりません。一回の引き上げ作業だけで数日を要し、その間の船舶運用コストは積み重なります。海底機器の耐久性を高め、メンテナンス頻度を下げることが、コスト削減の鍵を握ります。
分離・精製プロセスの確立
引き上げた泥からレアアースを取り出す工程は、実は採掘以上に複雑です。泥に含まれるレアアースの割合は、濃度が高い場所でも数パーセント程度。残りの大部分は不要な鉱物です。
レアアース同士も化学的性質が似ているため、分離が難しい元素です。例えばネオジムとプラセオジムは、性質が極めて近く、分離には何段階もの化学処理が必要です。この処理には強酸などの化学薬品を使用するため、廃液処理のコストと環境負荷も考慮しなければなりません。
現在、日本の研究機関では、より環境負荷の少ない分離技術の開発が進められています。特殊なバクテリアを使ってレアアースを選択的に吸着させる生物学的手法や、新しい吸着材を使った分離法などが研究段階にあります。
海象条件との戦い
南鳥島周辺の海域は、一年を通じて穏やかではありません。台風シーズンには作業を中断せざるを得ず、冬場でも時化る日が少なくありません。商業運用では、年間を通じてどれだけの日数を実際に稼働できるかが、採算性を大きく左右します。
波高が3メートルを超えると、精密な海底作業は困難になります。船の動揺が大きくなれば、パイプへの負荷も増大します。このため、自動で船の位置を保持する高度な船位制御システムや、波の影響を吸収する機構の開発も並行して進められています。
世界が注目するもう一つの海底資源
レアアース泥と並んで注目されているのが、海底に転がる「マンガン団塊」です。これは深海底に広がる、こぶし大からボール大の黒い塊で、マンガンだけでなく、ニッケル、コバルト、銅なども含んでいます。
太平洋の深海、特にハワイとメキシコの間に広がるクラリオン・クリッパートン断裂帯には、膨大な量のマンガン団塊が存在します。この海域は公海であり、国際海底機構の管理下にあります。日本も探査権を取得しており、将来的な開発の可能性を探っています。
マンガン団塊の採掘は、レアアース泥とは異なるアプローチが必要です。団塊は海底表面に転がっているため、泥を吸い上げるのではなく、団塊を拾い集める方式が検討されています。まるで海底の掃除機のような機械が、団塊を回収しながら海底を移動するイメージです。
ただし、この方式では海底を広範囲にわたって攪乱することになり、環境影響への懸念が強く指摘されています。深海底には独特の生態系が存在し、数十年から数百年かけて形成された環境を、一度破壊すれば回復には極めて長い時間がかかります。
レアアース需要を減らす技術開発という別の道
供給を増やす努力と並行して、使用量を減らす技術開発も進んでいます。レアアースを使わない、あるいは使用量を大幅に削減できる材料の研究です。
例えば電気自動車のモーターでは、レアアースを使わない「インダクションモーター」や「スイッチトリラクタンスモーター」という方式があります。米国のテスラ社の一部モデルは、すでにレアアースフリーのモーターを採用しています。ただし、レアアース磁石を使うモーターと比べると、効率や小型化の面で課題が残ります。
別のアプローチとして、使用済み製品からレアアースを回収する「都市鉱山」の活用も重要性を増しています。日本国内には、廃棄された家電製品やスマートフォンの中に、大量のレアアースが眠っています。これらを効率的に回収・再利用できれば、新たに採掘する量を減らせます。
実際、日本の一部企業では、使用済みハードディスクからネオジム磁石を取り出し、再び磁石として利用する技術を実用化しています。回収率を上げ、コストを下げることができれば、リサイクルは重要な供給源になり得ます。
世界で進む海底資源開発の競争
深海底の資源開発は、日本だけが取り組んでいるわけではありません。世界各国が独自の戦略で海底資源の確保に動いています。
韓国は南太平洋のトンガ沖で、水深1,500メートル付近に存在する海底熱水鉱床の探査権を取得しています。熱水鉱床とは、海底の火山活動によって形成される鉱物の堆積物で、金、銀、銅、亜鉛などが高濃度で含まれています。日本近海の沖縄トラフや伊豆・小笠原海域にも存在が確認されており、日本も開発を検討しています。
中国は太平洋、インド洋、大西洋の三大洋で探査権を確保し、海底資源開発に積極的です。特に注目すべきは、中国が深海探査技術に巨額の投資を行っている点です。有人潜水艇「奮闘者号」は2020年に水深10,909メートルへの潜航に成功し、マリアナ海溝の海底まで到達できる能力を示しました。
欧州ではノルウェーが、自国の排他的経済水域内の海底鉱物資源開発を2023年に承認しました。北極海に近い海域には、銅やレアアースを含む鉱床が存在すると推定されており、商業採掘に向けた動きが本格化しています。
排他的経済水域という地政学的優位性
南鳥島周辺海域が日本にとって特別なのは、ここが日本の排他的経済水域内だからです。排他的経済水域では、沿岸国が海底資源の探査と開発について排他的な権利を持ちます。他国の許可を得る必要がなく、開発のタイミングも利益配分も自国で決定できます。
これが公海上のマンガン団塊の場合、国際海底機構への申請と承認が必要で、さらに開発で得た利益の一部を国際社会に還元する義務が生じます。手続きの複雑さと利益配分の面で、排他的経済水域内の資源開発とは大きく異なります。
日本の排他的経済水域は世界第6位の広さを持ち、その海底には多様な鉱物資源が眠っている可能性があります。南鳥島はその東端に位置し、日本の排他的経済水域を大きく太平洋側に広げる役割を果たしています。面積わずか1.51平方キロメートルの小さな島が、日本の資源戦略において重要な意味を持つ理由です。
商業化までのロードマップ
日本政府と関連企業は、段階的な開発計画を描いています。2024年の回収実験は「実証段階」に位置づけられ、今後さらに規模を拡大した試験が計画されています。
次の段階では、年間数百トンから数千トン規模の泥を継続的に回収する実験が予定されています。この規模になると、採掘システムの耐久性や運用コストをより現実的に評価できます。同時に、回収した大量の泥から効率的にレアアースを抽出する処理プラントの設計も進められます。
2030年代の商業化を目指すという目標は、決して余裕のあるスケジュールではありません。新しい産業を立ち上げるには、技術確立だけでなく、安全基準の策定、作業員の訓練、サプライチェーンの構築など、多岐にわたる準備が必要です。
投資回収の見通しという現実
深海底資源開発には、初期投資として数百億円から一千億円規模の資金が必要とされています。採掘船の建造、海底機器の開発、処理施設の建設。これらの投資を回収するには、年間どれだけの量を採掘し、どの価格で販売できるかが鍵になります。
仮にレアアースの市場価格が現在の水準で推移した場合、採算を取るのは困難という試算もあります。しかし電気自動車の普及加速や、地政学的リスクの高まりによって価格が上昇すれば、状況は変わります。また、採掘技術の改良によってコストを半分に削減できれば、採算ラインに近づきます。
民間企業の参画を促すには、ある程度の収益性の見通しが必要です。現状では政府主導のプロジェクトですが、将来的には民間資本を呼び込み、持続可能な事業として成立させることが目標とされています。
レアアース戦略の多層化
深海底開発は、日本のレアアース戦略の一つの柱ですが、それだけに依存するわけではありません。リスク分散の観点から、複数のアプローチが並行して進められています。
第一に、調達先の多様化です。中国以外のレアアース産出国との関係強化が図られています。オーストラリア、ベトナム、インドなどが候補地であり、日本企業による投資や技術協力が行われています。2020年代に入り、オーストラリアの複数のレアアース鉱山プロジェクトに日本企業が出資を決めました。
第二に、備蓄の拡充です。石油と同様に、レアアースも国家備蓄と民間備蓄の制度があります。供給途絶が起きても、一定期間は国内産業を維持できる量を確保する戦略です。
第三に、先述のリサイクル技術の向上です。都市鉱山からの回収率を高めることで、新規採掘への依存度を下げられます。使用済み製品の回収システムの整備も課題です。
そして第四が、深海底資源の開発です。これら四つの戦略を組み合わせることで、将来的なレアアース供給の安定化を図ろうとしています。一つの手段に頼るのではなく、多層的な防御線を築く考え方です。
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まとめ
南鳥島沖から引き上げられた泥は、単なる土ではなく、現代文明を支えるレアアースを高濃度で含む貴重な資源です。日本がこれほど力を入れるのは、中国への依存を減らし、供給途絶のリスクに備えるため。そして将来的な技術輸出への期待もあります。採算性や環境への影響など課題は多いものの、電気自動車の普及が進む中、レアアースの確保は待ったなしの状況です。深海5,500メートルからの泥の回収は、その第一歩に過ぎません。今後、この技術がどこまで実用化され、私たちの生活を支えるインフラになるのか。その動向を見守る必要があります。
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